今年の1月から4月にかけて、新刊(『凜』講談社より発売中です! よろしくお願いします!)のインタビューを受けたりするため、月1回ペースで上京していた。で、上京中の空いている時間、なにをしていたかというとストリップ鑑賞です。浅草ロック座に2回、新宿ニューアートに1回、池袋ミカド劇場に1回行った。

「ストリップを観る」ということに対して、性的な搾取に荷担しているのでは……と後ろめたさも感じているのだが、でも好きなので語りたい。語らせてください。

 それにしても、女性が他人の女性器をじかに見ることはあまりないのではないか。男性ならトイレで横をぬっと覗き込めば、かんたんに同性の性器を見ることができる(「いや、覗き込んだりしないよ!」とこれを読んでいる男性陣は突っ込みたくなるかもしれないけど)。私はスーパー銭湯やサウナが好きで、そういった場ではみな裸になっているにもかかわらず、「ひとの局部がばっちり見えてしまった!」という経験をしたことがない(べつに見たいわけではないです)。引っ込んでいる形状のせいというのも多分にあるだろうけど、すごく妙なことのように感じる。

 

 話がずれてしまった。はじめてストリップを観たときは、「女神……!」という凡庸にもほどがある感想が浮かんで自分の発想の貧しさに若干落ち込んだが、初見でこの言葉を思い浮かべないひとはいないと思う。

 ストリップの流れをかんたんに説明すると、まず、本舞台で着衣で2曲ほど踊る。それから舞台上で、あるいはいったん袖に引っ込んで、脱ぎやすい薄物やセクシーなランジェリーすがたになり、細長く伸びた花道を踊りながら進んで盆と呼ばれる回転する円形のステージ(中華料理店の円卓を大きくしたものを想像してください)に辿り着く。この盆でおこなわれるのがメインであるベットショー(ベッドではなくベットが正しいらしい。外来語が下手な時代についた名称なんだろうか?)だ。ストリップと言われてたいていのひとが思い浮かべる、裸でライトアップされながら踊るショーです。

 正直、本舞台での着衣のダンスは、踊り子さんや演目によって惹きつけられたりいまいちだったり……とばらつきがあるが、盆に寝そべったとたん、どんな踊り子さんも例外なくひとりひとりがほんとうに特別な輝きを放つのだ。ピンクや青の照明を浴びた汗ばんだ肌は独特の光沢を放ち、なまめかしいのにつくりものめいた不思議な質感で、ポーズを決めて静止するすがたは生きている彫刻のようだ。

 私がはじめてストリップを観たのは浅草ロック座で、ここではベットショーが終わってはける直前のほんの一瞬、踊り子さんに花束を渡すことができる。笑顔のおじさんが跪いて女神に花束を捧げるすがたはすごくよかった。


 現在の日本のストリップ劇場は大まかにポラ館とそれ以外に分かれる。ポラ館とはポラロイド撮影のできる劇場で、いったん舞台袖にはけた踊り子さんが衣裳チェンジして出てきて、有料でポラロイド撮影ができる、お客さんとの交流タイムがある。差し入れを渡したり喋ったり、要するにアイドルの握手会みたいなものだ。撮影は着衣と全裸の好きなほうを選べて、ポーズも指定できる。
 女神がしもじもの者の指示に従ってポーズを取って写真を撮られ、会話を交わすなんて……とはじめてポラタイムに遭遇したときはかなり複雑な気持ちになってしまった。ポラが終わったあとは再度衣裳チェンジしてアップテンポの明るい曲とともに登場し、オープンショーがおこなわれる。指で局部を広げたりと笑顔でけっこう露骨なことをするショーです。正直私はポラタイムとオープンショーには馴染めないものを感じるし、踊り子さんの負担的にどうなんだろうって思うけど、劇場の収入や集客を支えている面もあるのだろう。

 私にとっての初ポラ館はゴールデン街の入口のすぐ近くにある新宿ニューアートだった。おっさんパラダイスな空間で、女性ひとり客には正直けっこう居心地が悪く、はじめてのストリップがここだったら印象がかなり異なったのではと思う。とはいえ、女性客だからといって不快な思いをさせられることはめったにない……はず。
 池袋ミカド劇場はさらに場末感のある空間で、圧倒的に狭く、盆は回転しない。盆というよりも短い花道って感じ。正直キツいなと場内に入ったときはぎょっとしたものの、お客さんのあいだにアットホームな雰囲気があり、席を譲ってもらったり気さくな男性客に「ボクのつくった踊り子さんランキング」的なペーパーをもらったりと、慣れれば過ごしやすかった。私はここではじめて「リボンさん」を見た。踊り子さんの決めポーズに合わせて紙テープを客席の端から飛ばす職人芸的な応援をするお客さんたちのことです。ほかにも「タンバさん」というタンバリンを叩いて応援するひとたちもいる。
 でもまあ、女性の初鑑賞なら非ポラ館である浅草ロック座をオススメします。バックダンサーもいてショーアップされていてあまり露骨じゃないし、劇場に清潔感があって映画館みたいな座席だし、女性客がそこそこいるし。あと、どこの劇場もたいてい女性割引をやっています。

 

浅草ロック座

 

新宿ニューアート

 

池袋ミカド劇場

 それぞれの場内図。うろおぼえなので間違っている可能性大。

 

 私のイチオシの踊り子さんはみおり舞さん。元バレエダンサーでローザンヌに出場経験があるそうです。はじめは浅草ロック座で観て、ベットショーでの見事なI字バランスや足指の使いかた(足の指で器用にリボンをつまんでポーズを取っていてその指の動きがとても色っぽかった)などに感銘を受けたが、そのときはそんなに強い衝撃はなかった。だけど、その後新宿ニューアートでラヴェルの「ボレロ」に合わせて全裸でバレエを踊る演目を観て、彼女のことが大好きになってしまった。

 通常はダンスショーとベットショーを3〜4曲使って踊るところを、「ボレロ」1曲で踊り通す潔い演目だった。前述のとおり、普通は着衣で登場して本舞台で踊るのだが、彼女は全裸にアクセサリーだけを身につけて盆に横たわった状態からスタートした。踊りはじめたとたん、場内の空気が変わるのがわかった。ゴールデン街のすぐ脇にある地下のストリップ劇場にいるという認識がだんだん薄れていき、古代ローマの野外劇場で神に捧げる踊りを観ているんじゃないだろうかと思ったぐらい、神々しかった。

 もういちど観たくてつぎの回も観たのだが(入れ替え制ではないのでいちど入場したらその日は何公演でも観ることができます。受付に券をもらえば再入場も可)、今度はミュージカル調の違う演目だった。ダンスなのではっきりとしたストーリーはわからないけど、田舎から出てきた少女がダンサーを目指し……みたいな話だったように思う。こっちも踊ることの喜びに満ちていて、観ているうちに涙がこみ上げてきた。

 ほかにも好きな踊り子さんや見たいと思っているのになかなかタイミングが合わない踊り子さんがいるけれど、その話はまたの機会にでも。

 

 全国のストリップ劇場は着々とすがたを消しつつあり、私の住んでいる札幌も数年前になくなった。今後空前のストリップブームが起こり、子どもの将来の夢第1位がストリッパーになったり女性誌で「ストリップダンサーに学ぶモテテク!」などの特集が組まれたりEテレで「趣味のストリップ鑑賞」という番組がはじまったりする日がやってくる可能性もゼロではないが、やっぱり消えゆく芸能なんだと思う。踊り子さんも永遠に踊り続けるわけではなくみなさんいつか引退するので、興味があるかたは、いちどぜひ。

 選挙が好きだ。エンタメとしての、祭りとしての選挙が好きだと公言しようとすると、「選挙や政治とは真剣に対峙するべきであり、面白がるものではない」という声が脳内で聞こえてきて躊躇を感じるが、都知事選を前日に控えていることだし、どう好きなのか説明したいと思う(けっこう長文になります、ご用心)。

 

 選挙は人間がおこなうもので、人間模様からは物語が生まれる。そして私は物語が好きだ。孤立無援で闘う泡沫候補も、大組織の複雑な力関係やしがらみの渦中にいる有力候補も、どちらにも面白みがある。

 

 エンタメとしての選挙、というとまっさきに思い浮かぶのは三島由紀夫の『宴のあと』だ。作品そのものよりも発表後のプライバシー裁判のほうが有名だが、シニカルで面白い選挙小説である。この小説からは「日本の選挙や政治なんてこんなもの」という諦観が垣間見えるのに、なぜ三島は思想に傾倒してあんな晩年になっちゃったのか……と口惜しく思うが、政治を信じていなかったからああいう行為に出たのだろう。
『からっ風野郎』(1960年公開の映画。主演三島由紀夫、ヒロインは若尾文子)の出演だとか、三島は自分が物語のなかに入りたかったひとなんだろうなと思うし、「自分がつくり上げた物語の主人公として死にたい」みたいな理想があったんだと勝手に理解している。主義主張には賛同できないが、あの悲惨で独りよがりな最期も含めて私は三島が好きだ。
 市ヶ谷の自衛隊駐屯地のバルコニーからクーデターを呼びかけたあのとき、かんじんの自衛隊員たちは昼どきで空腹だしヘリコプターのせいで三島がなにを喋ってるのか聞こえないし、早く終わってほしいと思っていたというエピソードも悲壮で切なくていい。

 

 テレビ東京の池上彰の選挙特番も選挙エンタメとしてすっかり定着した。私は投票日の夜は選挙速報を流しているすべての局をザッピングしながら見ているが、ついついテレ東を見ている時間が長くなってしまう。池上氏の番組のいちばんの見どころは当選した政治家や各党党首へのインタビューだろう。釣り針にぱくっと食いついてしまう政治家を見ると「器がちっちゃいなー」とがっかりするし、スマートにかわすさまを見ると「このひと、思ってたよりもクレバーなんだな」と評価が上がったりする。
 引っかけ問題みたいな意地の悪い質問は卑劣ですらあるが、選挙用のアルカイックスマイルが剥がれて素顔が垣間見えるのは単純に面白い。(池上氏は嫌われて憎まれることをみじんも恐れていないことがすごいと思う。私はたぶん死ぬまでその境地には辿り着けない)

 

 さて、今回の都知事選。都民ではない私(北海道民です)は「だれに投票しよう」と悩む必要がなく、さほど罪悪感を覚えずに楽しめる。(とはいえ、東京の決定は全国に波及するので、そんなに他人ごとではないのだけれど)。
 3人の主要候補で、物語的にいちばん面白みがあるのは小池百合子氏だろう(面白みがある=支持しているということでは必ずしもありません。って投票権がないんだからこんな予防線を張らなくてもいいのだけれど)。告示直前で折れ、涙ながらに支援者たちに出馬取りやめを伝えたという宇都宮氏のまっすぐさとつらい挫折にも私はすごくぐっとくるのだが(年齢的に今回がラストチャンスだったかもしれないのに!)、残念ながら候補ではないのでここでは除外する。

 

 先日、石原慎太郎氏が小池氏に対して「大年増の厚化粧」と言って物議を醸した。これはうんざりするような旧時代的な性差別発言だが、私は彼女をテレビで見るたび「ユリコ、人相悪くなったなあ……」と思っていた。人相とは不思議なもので、生活や思考がすぐに人相に表出してしまうひともいれば、どんなに乱れた私生活を送っていてもつるりとした顔つきのまま、というひともいる。

 小池氏の人相が悪くなったのは、おそらく都議会のドンを自分の敵と定めたためだろう(都議会のドンがどういう人物なのかという話は、いま私が喋りたいことではないので知らなかったらググってください)。鬼を倒すには自分が鬼になるしかないということなのだろうか。彼女の思想や政策や手腕などはさておき、元「芦屋のお嬢さま」が鬼を倒すために鬼になる女戦士というのはぞくぞくする。

 

 小池氏の物語で良い味を出している登場人物といえば、若狭議員だ。小池氏を支援したら除名を含めた処分をすると言って締めつけようとする自民党都連に「除名できるなら除名してみろ」と反旗をひるがえした、元東京地検特捜部の衆議院議員である。
 彼は小池氏の応援演説で「すごい惹きつけられている」と恋の告白じみたことを言い、「全然、(恋愛などの)問題ではないですよ」と照れ笑いし、「百合子、百合子って数え切れないくら言ってる。こんなに女性を呼び捨てにできることはうれしいことなんですが、選挙後は小池都知事と呼びたい」と浮かれている。
 この蜜月感。アドレナリン出まくってる感。私はひととひとが親密になり蜜月を迎えるがやがて憎しみが生まれ殺しあいに発展する、みたいな物語が大好物なのだが(『仁義なき戦い』みたいなことです)、こんなに愛がスパークするところを見せつけられると、すごく勝手ながらその後の破局といがみあいに期待してしまう。

 

 主要3候補ばかり取り上げられがちな都知事選だが、私は選挙の真の主役は泡沫候補だと思っている。おそらく戻ってこないであろう供託金300万を払って世に訴えたいことがあるひとたちだ。なんてピュアなんだろう(ただの目立ちたがり屋もいるかもしれないが)。今回は18人も出ているのでありがたい。
 なかには眉をひそめたくなるようなことを言っている候補もいるが、それでも全体を見ていると「世のなかにはこんなにさまざまな考えのひとがいるんだなあ」と嬉しくなる。思想は十人十色であるべきなのだ。多様性を持たない生物は滅びる。

 

「私の公約はただひとつ。『NHKをぶっ壊す!』でございます」とNHKの政見放送で笑顔で言い切った立花孝志氏(NHKから国民を守る党)がキャッチーさでは一段上だが、武井直子氏の「天皇制を廃止し、今上陛下を初代大統領に」という政策には度肝を抜かれた。廃止論者はめずらしくないが、そこから「大統領に」という飛躍は超アクロバティックだ。どこにでもいる近所のおばちゃんっていう雰囲気の女性が、こんな斬新な思想を持っているということに驚かされる。毎朝ゴミ捨てのときに挨拶を交わす名前も知らないおばちゃんって感じなのに!

 

 すっかり泡沫候補界の有名人となったマック赤坂にも触れたい。『映画「立候補」』(マック赤坂をはじめとする泡沫候補を取り上げたドキュメンタリー映画)で、紙パックの日本酒をちゅ〜〜っと呑み干してから街頭に立ち選挙活動をする場面を見て以来、私には彼がなんだか格好良い存在に見えてきている。ひとには理解されずあざ笑われる行為を、素面ではできないのに高額の供託金を払って続けている孤高の人物。ひとによってはただのアル中ジジイじゃないかと思うだろうけど。
 マック赤坂は以前から「同じ供託金を払っているのになぜ一部の候補だけを大きく報道するのか」というようなことを訴えてきた(そもそも供託金は、金銭事情に関係なく出馬できるようにもっと安くするべきだと思う)。数日前、「報道ステーション」で泡沫候補18人の選挙活動をVTRで紹介し、増田氏・小池氏・鳥越氏を「このほかご覧の3人が立候補しています」と省略しているのを見て、奇矯なひとの意見であっても、訴え続けていればやがて届くのだとちょっと感動してしまった。「とりあえず紹介はしときましたからね」みたいなアリバイづくり的扱いではあったけれど。

 

 アドレナリン全開で選挙活動をしている候補者を見ると、あまりに楽しそうで、議会制民主主義の国に生まれたからにはいちどは出馬してみたい! とうっかり思ってしまう(すぐに冷静になるが)。政治家はみんな、選挙が好きなんだろうなと思う。お金がかかるし体力的にハードだろうけど、それでも。

 

 選挙が近くなると必ず「選挙に行こう!」と訴えるひとがわらわら湧いてくる。選挙権が18歳以上になってからは「若者よ、選挙へ」みたいな話がいままで以上に語られている。だが、頭ごなしに言われて「そうか、行かなきゃ!」と素直に受け止めるならそれは若者じゃないし、「政治に参加することの意義」みたいな正論で説得されるようなひとはすでに選挙に行っている。それよりは、「選挙ってじつは楽しいんです」ということを語るほうが効果があるんじゃないか。良識のあるひとからは不謹慎に見えようとも。

 

 私は、投票とはパーティのビンゴカードみたいなものだと思っている。なくてもパーティじたいは楽しめるだろうけど、カードを入手して参加したほうがより楽しい。世のなかには愉快なパーティよりもつまらないパーティのほうが圧倒的に多いけど、それはさておいといて。

 恥の多い生涯を送って来ました、というのは太宰の『人間失格』の有名な一文である。相対的に見て自分の人生は恥が多いほうなのか少ないほうなのか判断できないが、恥について考えるとき、私はいつもゴージャス松野を思い浮かべる。

 ゴージャス松野とは、2000年ごろのミレニアム時代にワイドショーを賑わせた人物だ。女優の沢田亜矢子の夫でありマネージャーだったが、DVで訴えられ、泥沼離婚騒動に発展した。離婚成立後は美容整形したりホストクラブに勤務したりプロレスデビューしたりと、キワモノとしてテレビの見世物になっていた。そういう活動の一環としてアダルトビデオにも出演していた。私は10年以上前にそのAVをラブホテルのテレビで観たことがある。

 棒読みの寒いモノローグが全編にわたりちりばめられている、ドキュメンタリータッチの作品だった。女性を背に乗せお馬さんになって臀部を叩かれながら四足歩行したり、パッヘルベルのカノンをBGMに歌舞伎町を歩きながら珍妙な台詞をカンペを読んでいるような口調で語ったり、ひりひりする映像が目白押しで「観る拷問」といった様相を呈していた。極めつけは、いざ挿入というところでうまくいかなくなってしまい、「ひとがいると緊張するから」というようなことをスタッフに言って撮影を中断させるくだりだ。結局、スタッフを排除して固定カメラでの撮影で終了するのだが、仕事に徹するプロ意識あふれるAV女優とのコントラストが印象的だった。

 観たときはただの嘲笑対象でしかなかった。だが、それから年月が経つうち、私の頭のなかで意味を持ちはじめた。たとえば小説を書きながら「苦心して恥をかくなんて私はなにをやっているんだろう」と思ったとき、あんなに無様に恥を晒している人間がいるんだから、とゴージャス松野の存在を思い出して自分を励ます。恥なんてたいした問題じゃないのだ、と私の内なるゴージャス松野は言うし、事実それは正しい。

 ここまで書いてから検索してみたところ、DMMにそれらしきAV(18歳未満は見ないでね)があったので、300円払ってストリーミングで視聴してみた。記憶違いしていたところも多々あった。10数年ぶりに鑑賞した私は「思ったほど痛々しくないな」と感じた。10数年のあいだに、世のなかにはもっと痛々しく恥ずかしい事柄がたくさんあると学んだのだろうか? あと、ドキュメンタリーではなくフェイクドキュメンタリーなんだな、と理解した。当時は演出に気付かないほどピュアだったのだろうか?

 その後松野氏は、鬱病を患ったり肝不全で心肺停止状態になったり僧侶になったり整形崩れで顔がちょっとすごいことになっていたりプロレスを続けたりしている。そもそも福島の置屋の息子として生まれ育ったらしい。「置屋の息子」という言葉には特別な物語性がある。最後に、AVのなかの松野氏の語りを引用したい(文章で読むよりも、抑揚のない棒読みを聞くほうが味わい深いのだけど)。
 

「誤解を恐れずに言うと、ひとから誤解されるということは、そんなに怖いことじゃない。自分のこころのままに生きるということは、つねに戦い続けるということだから」

「AV初絡みが終わった。やたらと照明が明るく、私の邪悪なこころまで白日の下に晒された。緊張し、口が渇いた。こんな私をあなたは、そしてあいつはどう見るんだろう」

「宴のあとの寂しさが胸に迫る。堕落を目論む思いすら、快楽に溺れたいまの私には遙かかなたのことだった。私は決して強い人間ではなかった。不十分な人間だからこそ(ここで囁きボイスに)悩み続けている」