少し前に実家の荷物を整理していたところ、高校一年のときの生徒手帳が出てきた。
生徒手帳
 顔写真のうえに、新聞から切り抜いた麻原彰晃の顔を重ねてある。コラージュ。セーラー服すがたの麻原彰晃。うまく融合できたことがとても自慢だったことを憶えている。これを映画館やカラオケボックスの受付で出して、学生割引がちゃんと適用されるか実験したこともあった。

 地下鉄サリン事件が起こったのは、1995年3月、私が高校に入る直前のことだった。ニュースやワイドショーはオウム真理教ネタ一色になった。多くの被害者を生み、いまも苦しんでいるひとが大勢いる事件を面白がるのはとても不謹慎なことだ。だが、地方の十五歳だった当時の私には、遠く離れた場所で起こった非現実的な事件に思えた。現実に対する想像力に欠けていたのだ。

 高校一年の春、新しい地でのポジションを確立するため、だれもが狭い教室のなかで自分のキャラを模索する。お洒落であかぬけた印象を持ってもらいたくて努力したり、趣味をアピールして仲間をさがしたり、過剰にいいひとを演じてみたり、部活にアイデンティティーを求めたり。
 そのなかで私は、「オウムネタに詳しいちょっぴりクレージーな女子」というなんのメリットがあるのかわからないキャラを確立しようと思いついたのだ。「シャクティーパット」「ホーリーネーム」「血のイニシエーション」「水中クンバカ」などのオウム用語を連呼し、「ショーコーショーコー♪」「わーたーしーはやってないー けっぱくだー♪」とオウムソングを休み時間に歌い、体育の授業ではトランポリンのうえで座禅を組んで跳ねて「空中浮遊!」と叫んだ。虫かごみたいな底辺中学から脱出できて、解放感でテンションがおかしくなっていたというのもある。

 結果、得たものといえば、卒業文集のアンケートコーナーでの「将来教祖になりそうなひと:第一位」という、いまとなっては莫迦にされていたのではないかと疑うような称号だけだった。もちろん教祖にはなれなかったしなろうとも思わなかったが、だれにも話したことのなかった「小説家になりたい」という当時の夢は叶えることができた。まあ、夢と現実はまったく違ったのだが、それはまたべつのお話。

おてんば一年生 表紙
 先日、近所の古本屋で超ファニーなカバーの文庫をゲットした。レーベルは秋元文庫。帰ってから調べたところ、秋元文庫はいまで言うライトノベルの走りのようなものだったらしい。これはそのなかでもコメディタッチの学園モノをラインナップした、「ファニーシリーズ」のなかの一冊だ。初版は昭和49年。思ったほど古くない。

おてんば一年生 本文1
 本文ページにも挿絵が。右下にいるイヤミな取引先の課長みたいな顔をした人物は、おっさんではなく主人公の友人・初江である。後ろの子も宇宙人っぽくて怖い。

 さて、かんじんの内容だが、残念ながらイラストほどネタ的なつっこみどころはない。『おてんば一年生』こと主人公の藤倉千冬は高校一年生。三姉妹の末っ子で、となりに住む本間家の三兄弟のまんなかの次郎とクラスメイトだ。花嫁修業中でお見合いをしている三姉妹の次女・千秋と、三兄弟の長男・太郎との恋を軸に、話は進んでいく。
 で、主人公の千冬だが、「おてんば」という軽い言葉で表現していいレベルじゃないんでは……? と不安になるほど精神年齢が低い。三兄弟の末っ子である八歳の三郎といつも本気で悪戯を仕掛けあっている。
おてんば一年生 本文2
 けっこう発育が良さそうなのに、小学生の水鉄砲に本気で怒る千冬。サービスカット?

おてんば一年生 本文3
 姉のお見合い相手が気に入らないので、手品をすると嘘を言って彼の仕立てたばかりのズボンをはさみで切ってしまう傍若無人っぷり。ひどすぎる。

「あたしが大きくなったら、オムコさんをもらって、この家をつぐわよ」
 と千冬は悲痛な気持ちで申し出たつもりだった。
 ところが、彼女の顔をながめたおとうさんは無言で頭を振り、おかあさんにいたっては、姉の千秋よりももっと大きなタメ息をもらしたきりだった。
 まだ、カガミと相談したことのない千冬は、ぷっと口をとがらせたが、彼女のケナゲな心根はついにみとめてもらえなかった。

 高校生なのに「まだ、カガミと相談したことのない」という無邪気さに驚く。極めつきは以下に引用する餃子屋での会話だ。

「自分だけくうと、チュウするとき、ニンニクくさいからな」
「チュウって、なによ」
 千冬の初歩的な質問に、彼はニヤリとした。
「またの名をセップンともいうな」
「わ、いやらしい」

 チュウを知らない女子高生! もしかすると昭和49年にはまだ一般的な言葉じゃなかったのだろうか、と思い、 Wikipediaの「接吻」のページを見ると、「接吻の擬態語としては江戸時代に既に『ちうちう』という表現を見ることができる」と書かれている。へー。でも千冬は知らない。ここまで来るとウブを通り越してなんだか怖い。

 後半に出てくる体育会の場面でも、千冬の過剰なおぼこさを確認できる。これがまた、父兄が観戦にやってきて昼は校庭で家族揃ってお弁当を食べる、小学校の運動会みたいな体育会なのだ。千冬だけでなく学校行事まで幼い。昭和49年ごろはこれが普通だったんでしょうか?
おてんば一年生 本文4
 三郎がショートパンツの後ろに切れ目を入れるという悪戯を仕込んだため、「アベック競争」なる競技の最中にショートパンツが落ちてしまう。露出してしまったパンツは色が白っぽいのでブルマではないだろう。当時ブルマはアウターウェアだったから、そのうえにわざわざショートパンツを穿かないだろうし。つまり、全校生徒と父兄の前で下着を晒してしまうという、ジャンプに載ってるちょっとエッチなマンガに出てきそうなエロハプニングなのだ。普通なら羞恥でいたたまれなくなるはずだが、千冬は三郎に対して腹を立てるものの、下着を露出したことにはそれほど羞じらっていない。(写真の右上に写り込んでいるのは猫です)

 こんなに精神年齢に難がある千冬だが、次郎が自分に気があるということを知り、恋のはじまりを予感させて物語は終わる。
おてんば一年生 表4
 裏はこんな感じ。三郎が持っている謎のふわふわは、カマキリの卵ではなく綿飴です。

 福岡にだれかが来ることを「来福」と呼ぶの、すごくおめでたい感じがして好きだ(私はまだいちども福岡をおとずれたことはないけれど)。福岡の新聞などでは「○○さんが初来福した」など日常的に使用されるらしい。私が住む北海道でも、北海道にだれかが来ることを公的に「来道」と呼ぶが、あまり日常的には使われていない。せいぜい、官公庁が発表する「来道客数」などでしか見かけない言葉だ。

 実際に使われているかどうかはさておき、「来福」に並ぶおめでたい雰囲気になる都道府県はないだろうか、と考えてみた。結果、富山の「来富」、愛知および愛媛の「来愛」、徳島の「来徳」あたりが良いのではないでしょうか。「来愛」はちょっとこっぱずかしいけど。

 反対にBADなニュアンスになってしまう都道府県のチャンピオンは、兵庫の「来兵」だろう。なにやら軍靴の音が聞こえるきなくさい字面になってしまった。次点で、身の危険を感じる熊本の「来熊」。山で熊に遭遇したら死んだふりをしないで、走って逃げないで、目を逸らさずにじっと見つめて、瞳と瞳で語りあって、そのままゆっくりと後ずさってSAYONARAして。それが野生の熊とコミュニケートするときの、ジャスティス。