「パピコって名前にするつもりだった」
 十代のある日、母にそう告白された。 「そうか、パピコという名を背負って生きていく、そんな過酷な人生を送る可能性が私にはあったのか……!」と仰天したが、話を詳しく聞いてみると、母のおなかにいるときの胎児ネームがパピコだったらしい。

 グリコから出ているラクトアイスのパピコは、二本がくっついた状態で売られている。それをパキンと割って食べる。子どものころ私はいつも妹と分けあっていた。だが、母の告白を聞いたあとでは、二本のパピコを繋いでいる部分を臍の緒みたいに感じるようになってしまった(すると、潰れた球体が二個セットになっている雪見だいふくは卵巣みたいに思えてくる)。

 二本でひとつのパピコは、パピコと呼びかけられる胎児だった私&そのころの母のセットであると同時に、現在の私&違う名前をもらってべつの人生を歩んでいる私のセットである。パラレルワールドの私は、せめてパピコというトンチキな名前に漢字を当ててごまかそうと考え、「羽陽子」と「把妃子」と「波氷子」のどれが良いか迷ったりしているのだろう。意味を考えると「ピ」には「氷」を当てたいところだけど、パピコはラクトアイスであって氷菓ではないんだよ、とこっちの世界の私はアドバイスしたい。

 書店の講談社文芸文庫の棚で色川武大『狂人日記』(それにしても「狂人」すら変換させてくれないATOKの風紀委員っぷりはなんなのだろう)を見つけ、懐かしさにかられて購入した。前にこの小説を読んだのは二十二歳のゴールデン・ウィークだった。遠距離恋愛していた当時の恋人(無職)に会うため、東京に行った。どこでどう遊ぶか決めていなかったのだが、知らない駅で降りてみようと彼が提案した。「名前がいいし、たぶん公園がある!」と言われ、京王線の芦花公園駅で降りた。

 確かに駅のすぐ近くに公園はあった。私たちはそのなかを歩いた。まだ五月だというのに陽炎が見えるぐらい暑く、植物は凶暴さを感じさせるほど青々と茂っていて、肌寒い北の大地からやってきた私はすぐにしんどくなった。公園を抜けたところに図書館があったので、逃げ込むようにそこに入った。

 館内では寺山修司展かなにかをやっていて少し興味をそそられたのだが、彼が険しい顔で「有料だ!」と言ったので諦め、カーペット敷きのフロアで本を読むことにした。私は本棚から『狂人日記』の文庫を引き抜き、体育座りで読みはじめた。私の読んでいる本の表紙を確認した彼は、「『麻雀放浪記』のひとの別ペンネームで、ナルコレプシーだから麻雀打ちながらころっと寝ちゃうんだよ」と教えてくれた。そのときはじめて阿佐田哲也と色川武大が同一人物であることを知った。

 最後の一行まで読み終わってから図書館を出た。暑さはましになっているものの陽射しはあいかわらず強く健全で、さっきまで浸っていた小説とのギャップにくらくらした。そのあとどこへ行ったかは憶えていない。たぶん格安居酒屋で食事をして、一泊3000円ちょっとのレンタルルームに泊まったのだろう。彼とはそのうち音信不通になった。芦花公園駅もそれきりおとずれていない。

「2002年日韓ワールドカップまであと○○○日」と表示された電光掲示板を見た彼が、「2002年っていったらおれはもう三十歳か! まだ無職だったら死ぬしかないな!」と笑って言っていたことを思い出す。あれからFIFAワールドカップは2002年を含め三回おこなわれて、今年もブラジルで開催されるらしい。無職だろうが有職だろうが、彼がいまも生きていたらすごくいいな、と思う。

 少し前に実家の荷物を整理していたところ、高校一年のときの生徒手帳が出てきた。
生徒手帳
 顔写真のうえに、新聞から切り抜いた麻原彰晃の顔を重ねてある。コラージュ。セーラー服すがたの麻原彰晃。うまく融合できたことがとても自慢だったことを憶えている。これを映画館やカラオケボックスの受付で出して、学生割引がちゃんと適用されるか実験したこともあった。

 地下鉄サリン事件が起こったのは、1995年3月、私が高校に入る直前のことだった。ニュースやワイドショーはオウム真理教ネタ一色になった。多くの被害者を生み、いまも苦しんでいるひとが大勢いる事件を面白がるのはとても不謹慎なことだ。だが、地方の十五歳だった当時の私には、遠く離れた場所で起こった非現実的な事件に思えた。現実に対する想像力に欠けていたのだ。

 高校一年の春、新しい地でのポジションを確立するため、だれもが狭い教室のなかで自分のキャラを模索する。お洒落であかぬけた印象を持ってもらいたくて努力したり、趣味をアピールして仲間をさがしたり、過剰にいいひとを演じてみたり、部活にアイデンティティーを求めたり。
 そのなかで私は、「オウムネタに詳しいちょっぴりクレージーな女子」というなんのメリットがあるのかわからないキャラを確立しようと思いついたのだ。「シャクティーパット」「ホーリーネーム」「血のイニシエーション」「水中クンバカ」などのオウム用語を連呼し、「ショーコーショーコー♪」「わーたーしーはやってないー けっぱくだー♪」とオウムソングを休み時間に歌い、体育の授業ではトランポリンのうえで座禅を組んで跳ねて「空中浮遊!」と叫んだ。虫かごみたいな底辺中学から脱出できて、解放感でテンションがおかしくなっていたというのもある。

 結果、得たものといえば、卒業文集のアンケートコーナーでの「将来教祖になりそうなひと:第一位」という、いまとなっては莫迦にされていたのではないかと疑うような称号だけだった。もちろん教祖にはなれなかったしなろうとも思わなかったが、だれにも話したことのなかった「小説家になりたい」という当時の夢は叶えることができた。まあ、夢と現実はまったく違ったのだが、それはまたべつのお話。